投稿日 : 2014年6月27日 No.575
【うつ・心の問題解決!】体験談
うつ病とDV地獄から、トップセールスへ華麗なる転身!
【自分には心がない】
大学1年生の頃、私は下宿住まいをしていました。
何ごとにも積極的なタイプだった私は、入学以来色々な活動に精を出していたのですが、ある日の朝、突然寝床から起きられなくなってしまいました。
外に出ていきたくない、誰とも会いたくないなというような気持ちが、いきなり湧いてきたんです。
あれ、何だろうと思っていたら、なんとそのまま引きこもりになってしまいました。
その頃はうつという言葉も市民権を得ていませんでしたから、理由がよく分からないまま、引きこもりは1ヶ月くらい続きました。
その後、外に出て行けるようになったり、出られなくなったりを繰り返しました。うつ状態は外でも家でも構わずやってきます。
普通に動いていても、わっ、きたとなると、言葉も発せなければ体も動かせなくなるのです。
小学校で児童会長、中学・高校時代には生徒会長を率先して務め、果敢だった私がなぜうつになったのか?
それが気になっていたのですが、その頃の私は、自分に心が無いのではと思うようになっていました。
振り返ってみれば、人生のなかで泣いた記憶はほとんどありません。
感動する映画を見たら泣けるのかなと思い、そういった映画を観に行ったことがあるのですが、全く感動しませんでした。
「ああ、俺には心が無いんだな。やばいな俺、心凍ってるじゃん。こんなに冷たくていいの? 俺」と思っていました。亡くなった祖母に、仏壇で手を合わせながら「婆ちゃん、なんで俺、心が無いんだよ」と語りかけたその時、涙がこぼれました。唯一、泣いた記憶と言えばそれだけだったのです。
祖母が亡くなった原因は、直腸がんでした。
そして祖父も、胃がんで亡くなっています。
祖母は66才、祖父は71才で、そんなに高齢とは言えない年齢で亡くなっていました。
さらには母の妹・・・・・・私にとっては叔母ですが、今度は叔母が子宮頸がんで、48才という若さで亡くなったんです。
三人とも、本当に立て続けという感じでした。がんが見つかってからあっという間に亡くなっていったんです。
私の母は「いつか私もがんで死ぬんだ」と、ことあるごとに口にするようになっていきました。最愛の家族三人を一気に失って、怯えきっていたのです。
なぜ人はがんになるのか、私は考えるようになりました。
がん細胞は、自分が栄えれば栄えるほど、本体である人間の死期を早めることが不思議でした。
人間が死んでしまったら、がん細胞も生きてはいけないのですから、おかしいじゃないですか。
そういった疑問が湧いて、どうしたらがんを克服できるんだろうと思ったのです。
叔母は、抗がん剤治療をして切除の手術をしたのですが、切ることが全ての解決法ではないような気がしていました。
私はこの頃から、因縁という言葉を意識するようになっていました。
がんもうつも、過去からの因縁に違いない。
この因縁を自分の代で断ち切らなければいけない、という強烈な思いが沸き上がるようになったのです。
とは言え、何か具体的な解決策があるわけでもありませんでした。
うつの方は、ついに自分の意思で自分の体を動かせないというところまでいっていました。
他にも色々なことが重なって、結局大学も丸二年で中退することになりました。
【親子の仲睦まじい姿に硬化する心】
その後の私は、うつを押して牧場で働くようになりました。
若者向けの寮に入り、牛の世話をしていたんですが、仕事中にもうつは襲ってくるわけです。
結局、1ヶ月のうち半分程度しか仕事に出られなくなって、うつ状態にあるときは自室の押し入れにこもり、膝を抱えて体操座りをしていました。
自室ですから押し入れに入る必要はないと思われるかも知れませんが、今思えば光が見たくなかったのでしょう。
むしろそのほうが、多少は安定的な気持ちになれました。
ある日、牧場で働く女性の子どもが、学校から帰ってくる場面に居合わせたときのことです。
子牛にミルクをあげているお母さんに、ランドセルを背負った子どもたちがわーっと走って来て「お母さーん」と言いながら抱きついたんです。
それを見た瞬間、一気に気持ち悪くなって、翌朝から起きて来られなくなりました。
それどころか、そのまま半月にわたる引きこもりが始まったんです。親子の微笑ましい姿は、特にうつの引き金でした。
なぜ自分がうつなのか、心に関する本もかなり読んでみましたが、これだという解決策は見つかりませんでした。
しかしそれでも、私にはひとつのインスピレーションがありました。
何故かは分かりませんが、押し入れの真っ暗闇のなかで、うつはいつか治ると思ったんです。
牧場には私以上に重いうつの症状で悩む同僚がいて、その同僚は抗うつ剤を飲んでも全く効果がなく、かえって苦しんでいるようでした。
やっぱり心のことで悩んでいる人は多いな、たぶん世の中にはもっといるんだろうなと思いました。
どうやって治るかは分からないけれども、治るのであればその過程を体験できるので、その時が来たら自分が道しるべになれるという気がしたのです。
さらに同僚のなかには、私と同い年でがんになった友人がいました。抗がん剤治療で、頭がつるつるになっていました。
また私のなかに「因縁を切るしかない」という思いが湧いてきました。がんで亡くなった、祖父母と叔母のことを思い出したのです。
とは言え、私はもう完全にうつ状態で動けないわけですから、すぐにできることはありませんでした。仕事に出られない私を周りの人が心配して「お前、なんでそうなるんだ」と、声をかけてくれました。
なぜうつになったのか?
そう考えたときに、はっきり思い出されたのが母との関係でした。
母は、私が小学校に上がるかどうかぐらいの頃から体調を崩しがちになっていました。。
炊事洗濯ができない時は、父と私と兄弟たちで、分担して家事をしました。母は不眠症であり、自立神経失調症も患っていましたし、そういったことが、きっと私の心に影響したに違いないと思いました。
読んでいた本の知識からも、問題は心にあるということは薄々感じていましたので、それで本当に母と向き合わなきゃいけないんだと思い、牧場を辞めて、地方に住む親元に帰ることにしました。
【甦る幼少時の恐怖】
久しぶりに母と生活するようになって、その時に甦ってきたのが、幼少の頃、母が私を怒鳴り散らす光景でした。
夜中におねしょをした私を、母がものすごい剣幕でヒステリックに怒鳴り、手をあげる場面がうわーっと甦ってきたのです。
それまでは忘れていましたが、とにかく恐怖としか言いようがありませんでした。
自分がうつになった原因は、この幼い頃の記憶だと、そう思いました。
今更ながらですが、母に「謝ってくれ、あなたのせいでこうなったんだ」と言いました。
今思えばとんでもないことなんですけど。
すると母は、「悪かった」って謝ってくれたんです。
しかし謝られてもなんかこう、全然手応えがないんです。謝られたからって何なんだ、という感じでした。
私はその頃、林業の仕事に就いていました。
うつ病は続いていて、やはり月の半分くらいしか仕事はしていませんでしたが、日給月給で、出勤した分が給料でしたので、病身の私にはかえって都合が良かったのかも知れません。
そんななかで、同じ林業仲間の女性と付き合うようになったのですが、彼女も、私と似たような体験をしていました。
怒鳴り散らす男の人を見ると瞬間的に恐くなってしまうというのが彼女のトラウマでした。
ある日、母が私を抱きしめてくれたことがありました。実は以前から私のなかには、子どもがお母さんに抱きつくイメージが、鮮烈にありました。
「もしかして、母に抱きしめてもらいたいのかな?」と思っていた私の心を、母が察してくれて、抱きしめてくれたのです。
その時は「あっ、これでうつが治る」と思ったんですが、全然治りませんでした。治す方法はこれでもないんだな、じゃあ何なんだろうと思いましたが、解決策は一向に見つからないままでした。
林業を続けていた私は、天職についても考えるようになっていました。
仕事に誇りももっていましたし、楽しい時もありましたが、同時に何かが違うという気がしていたのです。私はそんなに職人気質でもないし、林業の世界で突き詰めていくことは、どうも不向きな気がしていました。
実際、何回か大きな怪我もしましたし、ずっと定年まで続けるのは考えにくかったのです。
じゃあ天職は何なんだろうと思っていました。
山に数人のチームで出かけていき、それぞれ散って行って、時間がきたら戻ってきてトラックで帰るのですが、仕事をしていても時間が進まず、苦痛に感じるようになりました。
もう何回も腕時計を見て、まだ10分しか経っていないのか、早く帰りたい、と思っていたのです。
職場の人間関係も、誰かの悪口を言って会話が成り立っていることに、嫌気がさしていました。一緒にいる目の前の仲間が攻撃対象になった時が、一番嫌でした。
その場にいない上司とか、誰かを責めている分にはまだいいんです。
でも一緒にいる人を悪く言うとなった時に、自分も言ってしまうんです。
そんな自分がまた嫌でした。
【妻子に現れる背負った因縁】
そうこうしているうちに、彼女と結婚する流れになっていきました。
しかし彼女のお父さんに、すごく反対されたんです。
私は内心、彼女のお父さんがすごく恐くて、挨拶に行くのをずるずる引き延ばしていました。
あとで分かったのですが、その時彼女は、結婚話が進まない原因は彼女のお父さんにあると思って、自分を責めたんですね。
すると彼女は体調を崩して、便に血が混じるようになってしまったんです。
仕事にも出られなくなってしまい、検査をしたところ、クローン病の疑いがあると言われました。
どういう病気かというと、クローン病は厚労省の難病指定になっていまして、医学用語でアフタというのですが、口内炎くらいの小ささの穴が、口から、食道から、胃から、腸から、全部の消化器官に開き、そこから血が出て血便になるのです。
調べてみたところ、この病気は原因不明で治しようがなく、一生付き合っていくしかないとのことでした。
とは言え、結婚話の最中です。
この先、どうすればいいんだ?
となった時、気づいたことがあったのです。
それは、彼女が原因じゃない、本当は私の度胸の無さが原因で、彼女を病気にしたのだということです。
「申し訳なかった、勇気を出してお父さんのところに会いにいくよ」と言って、お父さんに会いに行きました。色々言われはしましたが、最終的にOKをもらうことができたんです。
そこから私の両親の後押しもあって、とんとん拍子に話が進んでいざ結婚となった時、彼女の症状が消えたんです。
その後、結婚生活が始まりましたが、妻の体力自体は3分の1に減ってしまいました。家事を始めても途中で体力が尽きてしまうのです。
私はうつで月の半分しか仕事をしていませんでしたから、家にいるときはなるべく家事を手伝うようにしました。そのときに私のなかに甦ってきたのが、因縁という言葉でした。
なぜかと言うと、私の母が病気で、家事ができなかったからです。
病気の名前は違うけれど、彼女が母と事実上同じ状態になってしまったことに、衝撃を受けました。
これは自分が何かを学ばなければならない、これは自分がやることなんだと思ったのです。
この時、さらに悪いことに、私は妻の些細な言動で怒りが止まらなくなるようになっていました。暴力は振るわなかったのですが、近所中に響き渡るような声で怒鳴り散らすようになっていたのです。
娘が産まれてからは、特に酷くなっていくのが自分でも分かりました。あきらかに常軌を逸した切れかたをして、娘に手をあげてしまうのです。
これはまずいと思っていましたが、どうしようもありません。完全にうつ病ですよ。
でも娘を愛せません。よちよち歩きになっても、手をあげてしまうのを何とか防ぐ為に「娘を近寄らせるな! 来るな!」と、拒んでいました。
うつを抱えながらも、私は因縁を切ることばかり考えるようになりました。
母に怒鳴られて育った私が、今度は妻や娘を怒鳴り散らすようになっていたのです。
娘は妻から離れなくなり、保育園にも行けなくなってしまいました。二人目の長男が産まれた時、不思議と娘の時のような嫌悪感は感じませんでしたが、それも束の間、三人目がお腹のなかに宿ったと知った時、もう限界だと思いました。
当時一番嫌だったのが、ホームドラマやコマーシャルで、お父さんが子どもを抱き上げているようなシーンでした。
虫酸が走って気分が悪くなるんです。
こんなに子どもを愛せないのに、三人も愛せっこないと思いました。そこで本気になって、うつを治そうと行動し始めたのです。
【うつ病の治療方法を探し求めて】
地元の市の職員で、カウンセラーの方がいらっしゃったので、話を聞いてもらいました。
しかし、焼け石に水でした。うつの自助グループに入り、お互いの体験とか悩みを話し合いました。
暖かい場ではありましたが、残念ながら効果はありませんでした。
いいセラピーがあると聞けば、地方からわざわざ受けに行ったりもしました。
しかし、それも空振りに終わりました。一時的に癒されはしましたが、何も変わらなかったのです。
心理学や子育ての本も読み漁りましたが、解決の糸口すら見つかりませんでした。
もう、ぐちゃぐちゃの家族関係を背負っていました。昔の母のように私が怒鳴ると、妻は過去のトラウマで動けなくなります。泣きわめく娘は、子どもの頃の私そのもの。
この構図こそ、因縁からきているものだと強く感じていましたが、手だてはありませんでした。
怒りから正気に戻った瞬間、やってしまった自分の目の前に広がっていたのは、地獄でした。
「何やってんだ俺、こんな俺はいないほうがいい。一思いに死んでしまおうか」うつと怒りが押し寄せる毎日に私は疲れきり、もうどうすればいいか分からなくなっていました。
よく新聞やテレビで、幼児虐待について取り上げられていますよね。
そこで有識者と呼ばれる方が、「この親には愛情が無いんですよ」などと言っているじゃないですか。その度に私は、「何を言っているんだ」と思っていました。
「自分でコントロールが効かないんだよ。俺みたいになったことあるのかよ! そこまで言えるなら、今すぐ俺のところに来て、俺を救ってみせろよ。救ってくれよ!」
これが私の、偽らざる本音だったのです。
そのような家庭と心の状況を本当に何とかしたいと思った私は、以前お世話になったある方に、勇気を出して打ち明けました。
その方から勧められたのが、真我「心の再生」医療でした。妻にこんな医療があると相談すると「受けてあなたが変わるとは、夢にも思えない。
でも、もし本当に受けたいなら、私と子どもたちのために受けてきて」と言われ、受診することにしました。
【私、うつ病治りました】
真我「心の再生」医療は、親に対する自分の想いをある一定の方法で紙に書くことから始まりました。
しかし私は母に対する大きなわだかまりがあったからか、なかなかうまく書けませんでした。
そんな私を見て、カウンセラーの方が「私をお母さんだと思って、思っていることを何でも言ってください」と仰ったのです。
その瞬間私はぶち切れて、ものすごい剣幕で怒鳴り散らしました。
カウンセラーは頷きながら、一生懸命聞いてくれました。その後また書くように促されましたが、それでも書けなくて、それを6~7回繰り返しました。切れている時間は、実はそんなに長くないんですよ。
それを短いインターバルで連続で繰り返したので、かなりヘロヘロになりました。
ちょっと冷静になった私は、母との和解を意識しました。とは言え、母と私との間に横たわっている、この深い溝をどうするのか?
殺してやろうかっていうくらい、母を憎んでいたのですから。
紙には何回も「いつ来るの、その和解」「いつ来るの、その和解」とだけ書いていました。
すると、来たんです。「今だー!」っていう、自分の声じゃない声が聞こえて、その瞬間に雷に打たれて感電したかのように衝撃が走って、ばっと母のお腹のなかに、自分が赤ちゃんとして羊水にへその緒で繋がっている映像が見えたんです。
そこで初めて、元々ひとつだったっていうのが分かったんです。
母と私はつながっている、溝なんか無かったと。その瞬間に、母があのように私を怒鳴り散らしたのも、平手打ちを振るったのも、何もかもこの瞬間、本当の愛を知るための出来事だったんだ、全部愛だったんだというのが分かりました。
後はもう、泣いているのか吠えているのか、絶叫しているのか分からない状態でした。カウンセラーが、私の背中を擦ってくれていました。
記憶が飛ぶくらいずっと泣いていたのですが、たまっていたものが出っぱなしになったようでした。
しばらくして心が軽くなった私は、無意識のうちに「私、うつ治りました」と宣言していました。考えるより先に、セリフが出てきたんです。
言った瞬間に、「あれ? 俺、治ったの?」と思いましたが、確かに重っ苦しく感じていたものが、自分のなかに無いのです。驚いたことに、三人の子どもへの愛情も、心のなかにしっかりあることが感じられました。
帰りがけに、私は思い出しました。それはかつて、暗い押し入れのなかで感じたインスピレーションのことです。
「やっぱりあったんだ! これでうつは治せる! ついに体験したぞ!」
そう思うと、興奮が止まりませんでした。
その日、私が家に帰ったときのことです。
玄関で「ただいま?」と言った私を迎えてくれた妻が「おかえり?」と言いながら、その場に泣き崩れてしまいました。その姿を見た私も、なぜか一緒になっておいおい泣きました。
後で聞いたところ、私が変わって帰ってきたのが一目で分かったのだそうです。
娘も明るくなって、保育園に行けるようになりました。
「お父ちゃん変わった、優しくなった」って言ってくれたんです。
さらには妻に、「お母ちゃん怒りんぼだから、お母ちゃんも受けたほうがいい」って言うんです。
その後妻も真我「心の再生」医療を受診して、昔のトラウマを解消できたようです。
職場では、みんなで他人の欠点探しをしているのが如実に分かるようになりました。
悪口を言うのは元々嫌でしたが、本当に言いたくなくなってきました。しかし田舎ですから、言わないと今度は自分が村八分にされるかも知れません。
でも私は我慢出来なくなり、悪口の標的になっている仲間をとにかく思いっきり褒めたんです。
言いながら半べそをかき、足が震えていました。
私はこれを言ったが故に、集中砲火を浴びることを覚悟しました。
そうしたら、一斉にまわりの人たちが彼の長所を言い始めたんです。
この体験をしてから、ああ、やっぱり本当の愛は通じるんだという確信が深まりました。
そこから勇気を持って、せっせと行動するようになったんです。
真っ先に行ったのが、児童相談所でした。「自分は虐待していた側ですが、お蔭さまで治りました。何で治ったか、話を聞いてもらえませんでしょうか」と伝えに行ったのです。
応対してくれた所長さんは、とても驚いていました。
その次に行ったのが女性会館です。「加害者側の夫です、治ったんです」と、同じような話をしました。館長さんはびっくりして「20年ここで館長をやっているけど、夫の側が治った体験を活かしてくださいと来たのは初めて」と、目をまるくしていました。
その次に、少年科の刑事さんにアポイントを取って、警察に行きました。「非行少年がなぜ非行に走るか、私分かるんです」と話したのです。
市内の全ての小中学校、保育園の校長、園長先生にも話しに行きました。教育委員会の役員の方にも話しに行きました。
そういう噂を聞きつけて、地元のミニコミ誌の編集長と縁ができました。結構心のことに理解を示してくれる人で、一時期私の体験が連載されたのです。
そうしたら、問い合わせが殺到しました。
みんな悩んでいたんですね。
でも田舎なので、噂で広まると思うと言えないのです。
参加していたうつの自助グループにも、うつが治ったことを報告しに行きました。
私があまりにも元気になって帰って来たので、みんなびっくりしていました。そこでの座談会で自分の体験を話したら、何人かが真我「心の再生」医療を受診してくれました。
それに、あれだけ恨んでいた母とは、もう有り得ないくらい仲良くなることができました。
もう、以心伝心って感じです。
お互いに感謝し合えて、認め合えて、愛し合えている実感があります。
母も真我「心の再生」医療を受診したのですが、かねてからの不眠症は軽くなり、自立神経失調症もほぼ治って元気いっぱいになっています。
妻とは心の結びつきがさらに深くなったと思いますし、子どもたちはとても素直に育っています。実は、4人目の子どももできました。もう家族関係は本当に、ガラガラガラっと変わりました。
【林業からトップセールスマンへの転身】
だんだん人を喜ばせることが自分の喜びになってきたとき、仕事の上でも転機が訪れました。
知人を通じて、営業コンサルタントにならないかという話が舞い込んだのです。
営業経験など何もない私でしたが、林業の仕事を続けることにも疑問を感じていましたし、私は一大決心をして、営業の世界に身を置くことにしました。
しかし見知らぬ人に電話した経験もありませんでしたから、最初はガタガタ震えるくらい恐かったのを覚えています。他にも語り尽くせないくらいの困難がありましたが、でも、本当に愛をこめて仕事をすればきっと伝わるはずだ、必ず成長できるはずだと信じて、一つひとつ乗り越えていきました。
ふと気がつけば、林業時代の腕時計を見る癖がなくなっていました。
その時、曲がりなりにも一生懸命やってきた手応えを感じることができたのです。
その後、だんだん数字が上がってきて、入社から10ヶ月目には社内でトップの営業成績になりました。それでまた少し、自信がつきました。
それから現在に至るまで、私はずっとトップセールスを維持しています。
その後も仕事を続けているうちに、私のなかに、この会社を背負っていかなくてはという自覚が芽生えてきました。
すると突然、成績がびっくりするぐらい上がっていきました。その時は正直、何が起こっているんだろうと思いましたが、自覚をもつという心の状態が、実績に直結しているのが分かったのです。
気がつけば、あれだけ苦しんだうつのことは忘れていました。
営業コンサルタントに転職する前は、私の月収が一番低かったときで六千円に満たない時がありましたが、転職してからは最高で140倍くらいの月収になりました。
今は、本部長代行という役職も頂いています。
それに、職場の仲間の見え方も変わってきました。
皆さんが同志であり相棒であり、魂の協力者に思えるのです。
管理職の立場で皆さんの成績を上げなくてはと思うと、相手のせいにしたくなってしまう時もあります。
しかし相手のせいにするということは、かつて私がすべてを母のせいにして、心を閉ざしていたことと何ら変わりません。
本当は相手に責任はない、やっぱり自分から始めていくんだということを、いつも気づかせてもらえています。
職場の皆さんと一緒に仕事をしていて、それが本当に有り難いです。